右回りの人生からのショートストーリー

 

盆踊りの輪が右回りに回って大勢の踊り子が踊っていた。

この盆踊りに来るまでに、ちょっとした感傷的な出来事があって、それはここでは詳しくは書かないけれど、

「人生って頑張ってもなにも残らないことがどうしてこんなにも多いんだろう。頑張ったって報われないことばかり」という

喪失感のようなものであったということだけ書いておきたい。

とにかく無心に踊りの輪で何も考えてないような顔をして

幸せそうに踊ってる方々がわたしは能天気に映り、なんだかとてもうらやましく思えてきた。

色々なダンスをやってきたが、盆踊りほど形からしたら簡単なものはないと思ってきた。

でも、盆踊りほど踊ってる日本人の顔がリラックスして幸せそうなものもないように思えてくる。

時にはとっても盆踊りがうまい人もいる。でも

うまくなくたって全然いいという

この夏の祭りで踊る世界が心地いいのだ。

 

実際に私の小さいころ、夏がやってきて一番楽しみだったのは近所の小学校での盆踊りで沖縄の安里やユンタが流れるときだった。あの気持ちのいいメロディーが流れてくると沖縄っていう土地さえ知らないのに、なつかしさで心が満たされた幼少期。

 

今まで一生懸命に覚えてきた、ジャズダンスやヒップホップ

キューバの踊りたちやフラメンコ、、、数々の難しい踊りがなぜか急に色あせて見えるのはきっと

「努力や苦労では得られない。その場の空気で自然に踊りだせることのすばらしさ、そしてこの風情には

他はかなわない部分が盆踊りにあるから」だと思えた。

 

ふと、横を金髪の外国人のおばちゃんがすり抜けて、

見よう見まねにも届かないオリジナルステップで堂々と踊り出している。

周りなど気にしていないのだろう。

 

・・・・わたしだってそういうことができたことがあった・・・

目の前のおばちゃんのように外国で、たくさんのチャレンジをして、それを重ねていまがあるし、

それを悔やんだことは一切ない。

 

けれど、私にはひとつだけ

たったひとつだけ人生で悔やんでいることがある。

 

それは

自分の人生を実りのないものに使った長い長い時間のことだ。

 

それによって私は自分が

「本当に欲しいもの」をあきらめて生きてきたことにようやく気がついてからというもの

喪失感に襲われない日はない、10数年間を過ごして、

さらに残りの数年は

自分の人生をすでにあきらめている部分があったからだ。

 

何度も何度も心が死んでいたように思う。

実際に、「死んでやる」と文字にしたこともあったくらいだ。

今では信じられないことなのだけど

あの頃は、本当にそう思ってなきゃいられないという感じだった。

あの感じ何といえばいいのだろう。

もうここからいなくなれば、この悲しみもなくなると本気で考えてたようにも思う。

ーーーーーーーーーー

もっともっとずうっとわがままになっていたらよかった。

もっと自分が本当に欲しいものを素直に率直に求めたらよかった。

そしたら人生は別のものになっていたのに。

 

なんどもなんども悔やんで泣いて叫んで倒れて

本当に、ボロボロになった。涙が枯れるまで泣いて過ごした日々も数えきれない。

 

そんな自分を自分でさらにかわいそうな人にまで仕立て上げて

滑稽なことに苦しんで悲しんでやり過ごした。

 

でも、そんな自分を見捨てずに

そこについて支えてくれたものは踊りと歌だけ。

そう思って

だから私は歌と踊りを今まで続けてきた。

・・・・・これがなかったら生きれなかったからだ。

ーーーーーーーーーーーーーーー

 

気が付いたら本当に涙がぽろぽろと流れ落ちていて

どんなに拭いても止められなくなっていた。

 

仕方がなくそのまま放置して盆踊りを眺めた。

夜風が涼しく吹いてきて、涙を自然に乾かすような気がして

ただ自然に身を任せていればこのまま癒されていくのかもしれないと勝手に思った。私はどこまでも本当に身勝手だ。

 

その時

「大丈夫?」

と声がした。

 

気がつかれていたのだ。

「なんでもないよ」と咄嗟に言ってしまったが

 

「なんでもないわけがない」と、当たり前だけど思ったようだった。

とてもばつが悪くなったのと、楽しかった雰囲気が壊れて申し訳なくなり

しばらくして理由を話さないとならなくなった。

 

わたしは恵まれている。

両親がいて

普通に学校にも行き

就職して、そのままダンスに惹かれて、それを仕事にもできたし、

歌もこんなに歌えている、割と健康だし怪我はしょっちゅうするけど復活もできてる。

 

こんなに恵まれているのにこんな風に

自分ごときに悲しんだりして、

もっともっとこの年なら世のため人のために動かなくてはいけないのに、、、と

とても申し訳ないと最後に話した。

もっとこんな悲しみを超えて

自分が世の中のためになるようなことをしたいと本当に思った。

無駄な涙を流しては勝手に悩んでいる。

 

本当に世界に申し訳ないと思った。

 

けど、答えは

「どんな立場であったとしてもその人の悲しみを誰も量ることはできない」

というものだった。

「雅子の悲しみは誰にも量れない」

そうなのだ。

 

 

おそらく自分が乗り越えるための答えはきっといくつもあって、

私はまだ自分の答えがみつけられていないけれど、

段階は踏んでいる。

 

一つだけ以前とは違うことがある。

 

私が悩んで苦しんで倒れていた十数年間には決して得られなかった答えは、すでにここにある。

 

ひとりで悩まないでいいよと言ってくれる人がいる。

 

そういう人たちにずっと支えられていたから今も生きれている。

そういう人たちがいなかったら私はとっくの昔に病んでいたと思うし、(実際病んでいた時期も確かにあったけれど)

そんな私でも、受け止めてくれる人たちが常にいたから今がある。

やっぱり一人では生きれないとこういうとき思う。

 

「ありがとうね。もう大丈夫だよ。」

もちろん、また大丈夫じゃないときがやってくるかもしれない

その時は、正直に、大丈夫じゃないよ。

と言ってもいいんだな、、、、と今は思える。

ーーーーーーーーーーーーー

喪失感に苛まれた

ずっとずっとこの数年を支えてくれたNちゃん。

 

そして自分のことのように考えて一緒に泣いてくれたCちゃん。

私の立場が分かってくれるTさん。

私のどうしようもない部分をさらけ出せるT先生。

音楽の長い仲間や、

古い友人の最近幸せになったKちゃん、(よかったね)

私の一番つらかったときにものすごくタイムリーに多々一言で救って励ましてくれた大事な大事な今も応援してるNさんのことは、本当に忘れない。

同じく尊敬する人生の達人の

Kさん。彼の人生を振り返ればわたしなんてまだまだ30%くらいなものだ。

 

みんなの顔が浮かんでる。

わたしは決めたのだ。

 

次のステージは

自分が本当に欲しいと思う瞬間をずうっと求めて

 

好きな方向に好きに回って生きよう。

 

そう。

 

そしてもう

まったく違う道を違う人と歩き始めよう。

一番大切な、人に愛を自然に与える人から学ぼう。

 

人にいっぱい愛されて育った人と一緒に居よう。

 

単純で、簡単なことから

幸せだと思えることを見つけよう。

 

私の笑顔が大好きだよと言ってくれるだけじゃなくて

「わたしに笑顔をいっぱい与えてくれる人」と

一緒に居たいと、素直に思った。

もう、回り始めている。

だから大丈夫。

 

 

 

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ポルトガル大衆音楽ファドを歌い、南国の熱いキューバダンスを踊る。ラテン界のチャレンジャーMACHAKOからの皆様への声とココロとカラダに役立つ情報をお届けしています!

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ABOUTこの記事をかいた人

asaimasako

MACHAKO(浅井雅子)です。ポルトガルの大衆音楽ファド(FADO)を歌っています。 行動力と溢れ出るパワーで生きています。フラメンコ・サンバ・サルサも大好きです。ギターとパーカッション命。好奇心いっぱいに生きてます。