幸せの定義

みなさんにとって幸せって一言でいうと一どういった状態ですか?

 

こんな当たり前な定義

幸せについての定義が自分の中でようやく定まりました。

 

それはね・・・・・・

 

その場や

その人や

その日や

その瞬間に

 

声に出して

私は今幸せです。

って素直に笑顔で即、言えること。

 

言いよどむこともなく

とても自然な流れて

 

言える、書ける、思える、

 

つまりは内容はさておきでそういうこと。

 

そう考えてみたら

驚いたことに

 

私が幸せだなって今までに感じたのは、

 

やっぱり、「踊りや歌を表現」していて

たった一人で幸福感を感じることが30代まではとても多かった気がします。

 

それはつまり自己完結の幸せです。

 

ああ、私今、歌えてて幸せ

ああ、私今、踊れてて幸せ

ああ、私今、音楽とともにいきている幸せ

 

という感じです。

その次に、音楽を始めたことによって

一緒にそれをやっている仲間との交流

演奏中に、ダンスの最中にうまくいったときに

とても幸せを感じられるようになっていきました。

ここで、個人から仲間との音楽を通しての幸せに広がりました。

 

次にその仲間との幸せを外に発信するときに

お客様や参加者がわたしたちのパフォーマンスを見て聴いて

楽しそうに嬉しそうにしている姿をみること。

が自分にとっては最高に感じられるようになりました。

こちらになると、喜びはもう何倍にもなります。

 

でもね。

 

それにはまず

私がたった一人でも幸福を感じえる感性がない限り

そこには到達しない気がしているのです。

 

私がたった一人でも、音楽もダンスも幸せを感じられる人だから

その先があるのだなって。。。

 

ね。違いますかね?きっとそう。

 

まだまだ若輩者なので、あんまり自信がないけど

自分がそう思ってることは事実。

幸せには順序があるんですね。

 

そして人生も半ばになって思う最高の定義、それは

 

幸せだね

お互いに確認しあえること。

 

ここまでこれたなら、

間違いなく幸せの大きな定義を超えていることになるんだなと。

 

しかし私は、今までそういう感情をもったことも

いわれたこともない、年月を長く過ごしていました。

さみしいけど本当にそうだったんです。

 

あまりにも長い間、ずうっと戦い続けていました。

そして

人に与えたいという気持ちや

自分がひとりで得たいという気持ちがわがままに大きくて

 

わかちあえるということが

一切ない、本当にさみしい人生だったと振り返ってみると思えます。

 

だからこそ、これからは

幸せをその瞬間に分かち合えることを一番に考えて

生きていきたいなと、身に染みる出来事もありました。

 

すこし、そこにじわじわと、ちかづいてきています。

自分で気が付いたからです。

 

気付くのが遅れちゃったけど、そこはもう構わない。

今気が付いた。

一生懸命に生きてきたんだから

そういう

自分を認めたいとも思えます。

 

なにはともあれ、

幸せだね。

と口に出して笑顔で言える今は

 

私は間違いのない、幸せ者なのです。

 

ここまでの長い道のりを一緒に歩んでくれたのが

まぎれもなくダンスと歌であり、ファドなのです。

 

そして

私のたった一人での戦いや挑戦を認めて

今は、わかちあえてくれる人たちがいます。

 

本当にありがたいことです。

 

そして

ここまでこれたことに私は毎日感謝しています。

 

ありがとう。いままでの私。

これからはもっともっと

幸せが待っていると信じています。

 

 

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ポルトガル大衆音楽ファドを歌い、南国の熱いキューバダンスを踊る。ラテン界のチャレンジャーMACHAKOからの皆様への声とココロとカラダに役立つ情報をお届けしています!

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ABOUTこの記事をかいた人

asaimasako

MACHAKO(浅井雅子)です。ポルトガルの大衆音楽ファド(FADO)を歌っています。 行動力と溢れ出るパワーで生きています。フラメンコ・サンバ・サルサも大好きです。ギターとパーカッション命。好奇心いっぱいに生きてます。